LiveWalkerが取材したライブハウス・インタビュー特集(全111回・2013年7月〜2020年2月)のアーカイブです。掲載情報は取材当時のものです。

ライブやろうぜ!ステージファイル Vol.97

吉祥寺 曼荼羅

『曼荼羅』について
1971年に浦和(さいたま市)で創業。1974年、吉祥寺に移転オープン。ミュージシャンの登竜門的ハコとして知られる老舗ライブハウス。岩窟壁画の階段から地下へ踏み入ると、カッパドキアの古代地下都市をモチーフにした独特の世界が広がる。日常とは異なる時がゆっくりと流れ、生の音楽の熱とともに、見るものと見られるものが一体となる祝祭空間。吉祥寺の街に根ざしたライブハウスの草分けとして、音楽、舞踊、演劇、朗読、さまざまな表現を追求する。吉祥寺駅公園口から井の頭通りを徒歩2分。
『曼荼羅』へのお問い合わせ
『曼荼羅』公式サイト
武蔵野市吉祥寺南町1-5-2
TEL:0422-48-5003
ブッキング・企画イベント募集中(詳細

ライブハウスの中の人に話を聞いてみた〜 吉祥寺『曼荼羅』編

このコーナーはライブハウスでバンドをサポートしてくれる「中の人」に突撃インタビューして色々お話を聞いてしまおうというコーナーです。中の人の皆様、ご協力ありがとうございました。

曼荼羅店長 赤崎兼史氏

本日は日本を代表するライブハウスの一つである吉祥寺曼荼羅の店長、赤崎兼史さんにお話をお伺いします。まずは、オープン日を教えてください。

1971年11月28日です。最初は浦和(さいたま市)に開店し、1974年に吉祥寺に移ってきました。曼荼羅グループの第一号店となります。

ということはもうすぐ48年目に入るのですね(取材日は2018年11月)。赤崎さんが曼荼羅に入られたのはいつごろですか?

僕が入ったのは1998年です。最初は同じく吉祥寺の系列店STAR PINE'S CAFEに入りました。それから、南青山MANDALA、再びSTAR PINE'S CAFEに戻って、2015年に曼荼羅の店長になりました。

赤崎さんが担当されている、おもな仕事について教えてください。

ここに来てからはPAを含め、ほとんどのポジションを担当しています。以前は、それぞれの店舗の営業まわりを担当していましたが、ここでは全部できないと仕事になりませんね(苦笑)。

ブッキングも赤崎さんが担当されているのですか?

はい、ブッキング担当も今のところ僕一人です。結構ハードですね(苦笑)。でも、出演してもらいたいアーティストがまだまだ沢山いますので、ブッキングはしっかりやりたいと思っています。

曼荼羅は浦和でのオープンから半世紀近い歴史があります。創業にいたる経緯やエピソードを聞かせていただけますか?

当時、社長は芝居関連の仕事や映画の助監督をやっていて、劇団のテントを持って全国をまわっていたそうです。そのような生活のなかで「自分たちの居場所がほしい」ということで、浦和にお店を立ち上げたのが曼荼羅のはじまりです。

劇団のテントを持って全国をまわる…。そこからどのようにライブハウスにつながっていったのでしょうか。

最初に立ち上げたのは喫茶店のようなところでJAZZのレコードをかける、いわゆる「ジャズ喫茶」のようなお店だったそうです。そこに次第にミュージシャンが集まってきて、そのうち自分たちで演奏をはじめて、だったらライブができるお店にしよう、ということでライブハウスへと変化していきました。

アーティストが集い、表現の場が自然発生していた時代

日本のライブハウスの草分けですね。

そのころは、日本中を見回しても、今で言うライブハウス的なものはほとんどなくて、噂を聞きつけたミュージシャンが、曼荼羅を目指して全国からやってきました。とくに、当時のアメリカでブルースが流行っていたので、日本でブルースを演奏するミュージシャンが声をかけあって集まってきたそうです。

70年代前半となると、どのようなライブハウスシーンだったのか想像がつきません。

演劇でも音楽でも、アーティストが集まってきて、表現の場が自然発生的に登場しているような文化的な黎明期で、そのころはライブハウスシーンどころか、まだ「ライブハウス」という呼び方が存在していなくて、日本で最初に「ライブハウス」と名乗ったのは、うちの社長だそうですよ。

「ライブハウス」の名付けの親は、曼荼羅の創業者だったのですね!店内の造りも独特ですね。

これらはほとんどオリジナルの手作りです。当時のスタッフたちが1ヶ月半くらいかけてカッパドキア(トルコの歴史地区)をモチーフに、知人の陶芸家や金工の作家さんを招いて作りあげました。

この世界観はパフォーマンスの演出としても効果的だと思いました。

曼荼羅のステージでは、音楽だけでなく舞踊や芝居、朗読までやっています。表現者が生み出す音ひとつひとつを活かすよう心がけているので、その熱量をダイレクトにお客さんに伝えられたらうれしいです。

長年にわたって、吉祥寺の街とともに歩んできた

曼荼羅が吉祥寺に根を下ろして以来、吉祥寺エリアにも相当な数のライブハウスができました。そのあたりの影響はどうでしょうか?

そうですね、ライブハウス以外にもライブバーやカフェ、飲食店でもライブが出来るような場所は増えていますからね、ミュージシャンが分散している実感はあります。

時代とともに、表現の手段や楽しみ方も多様化していますからね。

そのような流れのなかでも、やはりライブハウスでしか表現出来ないことがあります。ここから巻き起こる渦のようなものが出来ないかと、日々考えています。

具体的な取り組みがあれば、聞かせてください。

長年にわたって、吉祥寺の街とともに歩んできましたので、地元に根づいた取り組みは欠かせないと思いますね。たとえば、ライブハウスというと、どうしても「大人の世界」という感じですが、最近は子ども向けのライブイベントも始めました。

曼荼羅の古代遺跡のような空間は、入り口から異世界を探検するようなワクワク感があるので、独創的なライブ・ストーリーが展開できそうです。

はい、大人から子どもまで幅広く、いろいろな人が集って楽しめる場所にしたいですね。

赤崎さんのこれまでの軌跡をもう少し教えてください。楽器演奏や音楽活動はされていたのですか?

僕は八王子で育ったのですが、小中学生のころ親のすすめで少しピアノを習っていた程度で、音楽は好きでしたが、とくに楽器やミュージシャンに熱を上げる、というようなことはありませんでした。

八王子というと、バンド活動が熱いエリアですが…。

そうですね。バンドのほうは、高校時代にギターを弾いたり、歌ったり、ほんのちょっとだけやっていましたけど、とくにプロや上のレベルを目指して活動していたというわけではなかったですね。

音楽との距離がとくに近かったわけではないのに、どうして音楽の世界で仕事をするようになったのでしょうか?

もともとは写真家を目指していて、そちらの方向の学校に進みました。写真の勉強をするうちに、表現そのものに関心を持つようになり、音楽を軸にして、さまざまな表現ができるところで学びたいと思いました。それで、その可能性を感じたSTAR PINE'S CAFEに入ったというわけです。

赤崎さんが曼荼羅グループに入られたのが1998年とのことなので、来年で20年になりますね。

そうですね。いまだに勉強の毎日ですが、これからも曼荼羅でしか出来ない表現、熱量を大切にして発信していきたいと思っています。

それでは最後になりますが、曼荼羅からメッセージをおねがいします。

ライブは日々の生活を豊かにするものだと自負しております。音楽に限らず、さまざまなアーティストのライブやイベントが毎日楽しめますので、ぜひ曼荼羅に遊びに来てください。

ライブハウス曼荼羅の歴史をひも解く、貴重なお話が聞けました。これからの曼荼羅の発展を楽しみにしています。本日はありがとうございました。

インタビュー&ライター 浅井陽(取材日 2018年11月)

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吉祥寺(武蔵野市)
70年代からジャズクラブやライブハウス、音楽スタジオ、劇場などが集まり、井の頭線と中央線のカルチャーが融合する都内有数の文化発信地。井の頭公園の自然、都会感と郊外の良さがバランスよくミクスチャーし、住みたい街ランキングでは毎年トップ3にランクイン。
MANDALA GROUP
1971年に初代曼荼羅をオープン。1974年に吉祥寺に移転して以来、吉祥寺を中心にライブハウス(吉祥寺曼荼羅MANDA-LA2南青山MANDALASTAR PINE'S CAFEROCK JOINT GB)、スタジオ(studio LEDA・studio α vega)を運営。YouTube公開生放送musica da Leda、レーベルや出版など音楽関連事業を展開。