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不治の病に挑んだ男『池上直一物語』2/3

池上直一物語(2)「青年立志」編

 

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幼き妹の壮絶な死を期に医師への道を目指した直一少年。努力の甲斐あり、東京医学専門学校(現・東京医科大学)に無事合格。この医学部には、このころドイツでも定着しつつある「胸郭成形術等虚脱療法(肋骨を数本外し、剥離した状態で肺を治療する手術)」の技術研究などを導入した日本初の対結核手術療法チームが編成されていたのだ。

 

世界最先端の医療を習得せんと、直一は入学後も勉学、研究に励んだ。だが、けっして裕福とは言い難い家計事情。入学後も夜はアルバイトに励み、自身の学費と家族への仕送りを両立させながらの生活が続いた。

 

清貧というには少しばかり及ばない生活ぶりは、真冬であろうと学ラン一丁に素足に靴。三畳間で机はミカン箱。あげくの果てに勉強中は、隣部屋の天理教の生徒が日がな一日太鼓で読経。

 

最新医療を学ぶにふさわしい環境とは言い難いが、それでも直一は「死んだ妹の無念を晴らす」、「貧しい人でも治療が受けられる医療制度をつくる」という信念のもと勉学に励んだ。ついには医学部を卒業し、晴れて最先端の結核治療チームの一員となることが出来た。(尚、卒業式では卒業アルバム用の帽子やマントが買えず、撮影の終わった友人に「卒業衣装セット」をそのまま借りて撮影したらしい)

 

 

卒業後まもなく直一は、東京市療養所(中野病院)へ着任。それまでここは、入院患者の9割が死を待つだけの絶望渦巻く結核療養所であった。その状況を打開せんと、直一は一心不乱に治療にあけくれた。

 

新しい医師たちの参入、新しい医療の導入により、患者の生存率は徐々に数字を伸ばす。この医療躍進は、静かに死を待つだけの患者たちの心を奮わせた。その治療が100%の成功に至らないと知っていても、生きる望みが高まるだけで、生きる時間が延びるだけで、彼らにはかけがけのない希望の光となった。

 

死と隣り合わせで実感していた彼らだからこそ、リスクがあろうとも生きられる、その素晴らしさ、その現実を存分に実感できたのだ。

 

輝かしい成果の朗報は瞬く間に日本中に広がり、全国から治療の依頼が押し寄せた。直一は少しでも多くの患者を救わんがため、中野の療養所を仲間に託し、新たに群馬県は吾妻郡(現・東吾妻町)に国立結核療養所「長寿園」を設立。

 

だが、長寿園設立も一筋縄ではない。結核が治る人達が増えたとはいえ、壮絶な手術の甲斐なく命を落としてしまうものも少なくなく、ましてや感染の可能性もある病気であるゆえ、例え隔離された施設とはいえ、その患者達の入院を拒み、施設設立の反対運動まで起きたこともあった。

 

多くの命を救いたいという懸命の医療活動も虚しく、反対する者の中には「結核手術は人体実験」、「金儲け」などと直一ら医師を執拗に責め立てる人達も後を絶たなかった。

 

 

だが、直一の志が揺らぐことはない。妹の無残な死を看取った直一にとっては、心ない侮蔑の言葉など響くはずもなかった。 数多くの結核死と向き合ってきた彼ら医師にとっては、この取り組みこそが、もっとも未来のある治療法であると確信していたからに他ならない。

 

結核根絶へ向け、直一ら医師は、さらなる技術革新、医療制度の改善へ向け邁進する。

 

 

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企画&ライター 浅井陽 - イラスト担当:こむじむ

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